平成31年度報恩講をおつとめしました

昨日1月20日、覚円寺の報恩講が無事つとまりました。
昨年に引き続き、本願寺派布教使である喜多唯信先生をご講師に迎え、ご法話を頂きました。今回のご法話を私なりにまとめてみたいと思います。

とかくこの世界というものは、色々なものを差別しています。
土俵には女性が登れないであるとか、LGBTの人や障がい者には 生産性がないとか、もう差別だらけです。

無意識的に最も差別していると言えるのは「正と死」でしょう。
生に対して死は穢れ(けがれ)であって、忌み嫌うべきものと 思っています。

しかし、仏教ではこの「穢れ」というものを認めません。
最近「お寺の掲示板」が注目されていますが、あるお寺の 掲示板に釈尊のことばとして

「次はお前の番だ」

というのがあったそうです。
ほんとうは生きていることのほうが不思議であって、誰にでも 死は必ずやってくるということをあらわされたのでしょう。

さて私たちは自分の都合で良いものと悪いものを分別しています。
これに対し仏教では全てを平等と見ます。

釈尊のお弟子の中にウパーリ(優波離)という方がおられました。
ウパーリさんは理髪師だったそうです。当時のインドではカースト制が今以上に社会に浸透しており、人の髪に触れる理髪師は底辺層であると されていました。

ウパーリさんが出家をしたいと釈尊に申し出たとき、釈尊は同じ時期に 出家をしようとしていた貴族の人よりも先に出家ができるように 働きかけたそうです。

その後釈尊の説法の場で、出家した貴族の人が、底辺層であるウパーリさんよりも上座に座ろうとしたところ釈尊はそれをたしなめ、ウパーリさんを 上座に座らせたということがありました。

釈尊の教団では、一般の価値観は取り入れていません。
教団内では、先に出家をした者を目上のものとし、座る場所も 上座であるとされていたのです。そこにはカースト制での上下の差は なく「法の下での平等」の教えがあったのです。

長い時を経て仏教が日本に伝わり、平安末期から鎌倉初期という時代にこの 「法のもとでの平等」という教えを再び見出し、全てのものが救われる法門を立られたのが法然上人であり、それを究極まで高めてかれたのが親鸞聖人 というお方でありました。